その ②: 『 出処進退 』 を考える2017年09月15日

「出処進退」という言葉は、古くからいろいろな場面、人物、年代の時に使われてきました。文字をみますと、出立、出発、進軍などの時には、信頼するに足る人物(部下、顧問、軍師等)に事の成り行きを任せてもよい(顚末も良好な方向に向かうことが予測できる)場合がある事を言っているでしょう。おそらくはかなりの確証をもってそのように行動しても、過去の経験では問題は生じなかったと思われます。一方、後退、殿(しんがり)の場合、破産状況の場合、などは決して他人に任せておくことが出来ない場合がほとんどです。つまり、出(いずる)と退くとは全く対照的な事象です。

このような局面に遭遇すれば、人は弱いところが前面に表れるため、課題を自分で考えて乗り越えることが困難となってきます。 従って、人間の出来、不出来が端的に現れるのは、出処進退の時であると昔から言われ続けてきました。特に退く時が難しい。財界人、産業界人、武士など、頻繁に時の流れや人の心の移り変わりを経験した人物は、常に明日の我が身をどのように処すか、が大きな課題であったと思います。以下に数人の例を掘り起こして、先人はどのような経験を生かしたのか、検討してみましょう。なお、登場人物は経済界、歴史上の人物としてよく知られた3人です。
【 中山素平 】
財界人であった中山(興銀社長、会長)は、出処進退における原理原則を持っていた人物として知られています。事の顚末において原理原則を持つとはどういうことでしょうか。公平、公正、私欲がない、といった基本的な身の決し方が必要である事は論を待ちません。決断を他人に相談すれば、辞めるな、まだ早いという答えが返る。結局、自分で決意し、自分で辞めるしかない。相談する必要性は何か、どこにあるか、難しい。

中山は出処進退に厳しい人が責任者になるべきと言っている。仕事を離れて初めて、仕事がその人の人生にとりどんなウェイトを持っていたか、が知られることになる。凡人にとっては、その時では遅すぎることになる。いついかなる状態でも、どんな苦境の場合でも、身の処し方は突然やってくる。まったく、不意打ちを食らうことになる。常日頃から、準備万端でありたいと考えるのも普通の人である証拠でしょうか。
【 伊庭貞剛 】
後継者選びは己を無にする作業(第1の仕事)がまずあり、続いて仕事への執着を断ち切る作業(第2の仕事)がある、と伊庭はことある毎に述べてきた。特に財界人においては、相矛盾する両者の仕事(第1の仕事と第2の仕事)を第三者に素直に委ねる決断が必要である。口で自分の考えを述べるが、行動は全く別であるという人物がはるかに多いことも、我々は身近に、あるいは遥かかなたの領域で散見するのも珍しくない。

一方、伊庭はこれらの前例を真似ることなく、一切を断ち切り、自分の考えを、あるいは原理原則を正直に実践した人物である。おそらく、周囲からはまだ辞するのは早い、君の心身頑丈な場合には、まだ大丈夫、などと軽い声が聞こえたであろう。ところが、住友系鉱山等を管理運営してきた実積をすっぱりと消し去り、57歳にして本当に隠居してしまったのである。立派な人物であると賛辞を贈るしかないが、本当にここまで徹底してできる人は、ほとんどいない。
【 河井継之助 】
越後長岡藩家老として、藩にとっては望まない方向の戦争に巻き込まれてしまった。日本国の革命ともいえる明治維新において、薩長軍に弓を向け、結局はならず者に近い仕打ちを受けた張本人の一人である。時代が人の考えよりも早く立ち去ることで、無謀な政治改革をなさねばならなかった。しかし、そのような戦争状態で、一つの規範に基づく決済を実践したのである。
「進むときは人任せ、退く時は自ら決せよ」といった立派な訓告をなした第一級の武士である。このような戦時状況を予想すれば、敗軍の将は何をか、語らんや、と問いたい。出処進退は高潔な人物の周辺では日常の仕草であったことが推察される。
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